
帰ってきた矢部ちゃんのカメラマン日誌
カメラマンのつぶやき

すっかりごぶさたしてしまいました(汗)。
今回は、新婚の身であるにもかかわらず、イラク戦争の取材に行って来た斎藤 修カメラマンの日誌をお届けします。
すっかりアラブ人のような外見になって帰ってきた彼の目に映ったカタール、クウェート、イラクの様子はいったいどんなものだったのでしょうか。

2003年6月3日 イラク戦争取材報告
「戦争が始まったら行ってくれるか?」
携帯が鳴り、泊まり明けのぼーっとした頭に部長の声が響いた。
おそらく少し間があったと思う。
「い、行きます...」と、答えたものの、以前のようにはいかなかった。
なぜなら、一応(?)新婚の身であった。
家のこと、その他いろいろなことが頭をよぎった...。
しかし、である。
この仕事をしていて良かったと思うのは、やはり普通では行けないところに行けること。
まさに歴史の一場面を自分の感性で映像に切りとること。
「戦争取材」と聞いて、高ぶるものを抑えられなくなった。
危険は承知のうえだが、ぜひ行きたい!
妻も快くOKしてくれた。
1月には、ドバイにて行われた「生物化学兵器に対する防護訓練」も受けた。
イラクに関する勉強会にも何回か出席し、準備は万端整っていった。
3月。
世界中で反戦運動が盛り上がっていた。
われわれ3人(スーパーニュースキャスターの小泉氏、VE(ビデオエンジニア)の中島君)の出発も延び延びになっていた。
「戦争? いつはじまるの??」まさに半信半疑での出発となった。
行き先はカタール、ドーハ。
アメリカ中央軍前線指令本部、アッサイリヤ基地での動きをカバーするためだ。
まず最初の関門は、大量の機材が無事到着しているかどうか、そして通関である。
別に悪いことをしているわけではないのに、なぜかしら、ここ税関ではいつもドキドキしてしまう。「スムーズに通関できるだろうか?」、「いちゃもんつけられて没収などされないかな」などと神経をとがらせる。しかし、不安とは裏腹に、われわれの機材は難なくクリア。
驚いたことに、アメリカ3大ネットワークを含む世界各国の機材が大量に空港で留め置きをさせられているのが目立った。殺風景な空港の片隅に色とりどり、さまざまなステッカーが張られた機材が所狭しと並んでいた。
ホッと胸をなで下ろしながら、空港の建物を出る。アラブ特有のほこりっぽさとムッとする熱気に迎えられたのを覚えている。
ドーハは、「世界で最も退屈な街」ともいわれるところ。(なにも遊びに行くわけではないのだから関係ないと言われればそれまでだが...)
街も何となく人工的で情緒がない。われわれが到着した時は、なにやらフェスティバルのようなものが開催されていたのだが、決して品のいいとはいえない、きらびやかなライトアップが余計にむなしさを感じさせるものだった。
「酒は当分飲めない!」そう覚悟していた。飲まない人にとってはなんでもないことなのだろうが、酒飲みにとってはこれがある意味<試練>である!
取材が終わったら、ビールをプハーと飲みたい! が、それができないとなると相当つらいな...。
しかし、カタールでは、ホテル内のレストランでは酒を飲むことができたので助かった。
翌日はプレスパスの申請。これがないとはじまらない。みんなで情報省に申請に行くが、案の定、すぐにはパスを発行してくれなかった。ご多分に漏れず、この国でも午後1時から4時までは<休憩? お祈り?>時間なのだ。
イライラしてもしょうがない。そう思いつつもアラブ特有のやり方、その雰囲気に驚かされ、いら立ったりもした。
結局パスが発行されたのは午後8時を回ってからだった。
これに、アメリカ軍(CENTCOM)のプレスパスが加わり、パスは無事そろった。
しかし、アメリカ軍の徹底した情報管理により、取材どころか基地の下見もできないような日々が続いた。こんな時カメラマンは特につらい。カタールでは、反米デモなどの動きもなかったため取材対象がなかった。
「戦争取材とはかけ離れたところにきている」そんな錯覚に陥り、ジレンマとイライラで気分的になんとなくさえない日々が続いた。
そんな中、アメリカ軍から「報道陣も基地に泊まってもいい」という連絡が入った。
われわれも、寝袋などの必要物資の買い出しに走った。「いよいよかー!」
3月19日。
まさにそれが開戦へのサインだったのである。
バグダッドでの空爆開始は中継のスタンバイ中に入ってきた。
それから2〜3日はほとんど徹夜状態であった。
しかし開戦してからもなお、アメリカ軍の情報シャットアウト状態は続いた。いら立った欧米メディアの記者などが軍の広報官に詰め寄るシーンも見られた。
今回の戦争でメディアは「テレビ電話」という手法を取り入れた。(まあアフガン攻撃の時からだろうが)
私にとっても今回が初めての経験だった。慣れてしまえばこんな便利なものはない。フィックス(固定)の映像なら全く問題ないし、オンエアの送り返しも見られる。
また、逆に動きがカクカクで、ある種乱れた映像が最前線から送られてくると、それはそれで、ものすごい臨場感がある!
CNN、FOX、アルジャジーラなどなどが、ものすごい迫力の映像をガンガン放送していた。
3月27日、クウェートに入った。
ここでは街がぴりぴりとした緊張感に包まれていた。
まさに戦時下にいるということを肌で感じさせる。カタールとは大違いだ。
ホテルの地下にはシェルターがあり、夜中でもサイレンが鳴れば、皆、ガスマスクを装着し、階段を下ってそこまでいかなくてはならない。
われわれが到着して数日後、イラクの撃ち込んだミサイルがクウェート市内のショッピングセンターに着弾するというニュースが飛び込んできた。これにはさすがに肝が冷えたが、なすすべもなく、ただボー然としていたのを覚えている。
ガスマスクは食事の時でも常に携帯。寝るときも枕元に置いていた。
取材の時もガスマスク以外に、防護服キット、防弾チョッキ、ヘルメットなどを携帯。
これに通常の機材、そしてテレビ電話とインマルのセットを加えると膨大な重量になった。
これを2〜3人で運ばなくてはならない。気温40度の中、これを持ち運ぶだけで汗だくになった。
ここでの取材は、クウェート情報省や米英軍の主催するメディアツアーが主である。
しかし、ツアーというだけあって、なにかしら彼らのいいなりになっているという違和感が常につきまとった。情報操作?
情報管理??。まあそこまではいかないにしろ、彼らは当然のことながら自分たちに都合の悪いところは決して撮影させない。
戦争という特殊な状況下というのもあるだろうが、自由に取材できる喜び、その大切さといったものをあらためて感じさせられた。
アラブの国では(私の個人的見解だが)、コネとか人間関係が非常に重要視されているようだ。特に、ビザや各種IDパスに関しては特にそうだった。
ちなみに、ここクウェートでも情報省、国防省などのプレスパスは必須(ひっす)アイテムで、自分の首はぶらさげるプレスパスでいっぱいになった。
われわれと常にいっしょだったクウェート人コーディネーターは、強烈な個性を持った人物で、特に強力なコネクションを情報省など各方面との間に持っていたようだった。
「自分に言えば、なんとかしてやる」そんな自信を醸し出していた。
口癖は「NO PROBLEM!」
彼のおかげもあって、われわれはクウェートからイラクへの国境越えをスムーズに行うことができた。当初、それができたのは日本のメディアでは唯一であった。
イラク南部の港湾都市ウムカスルに入ったときも国境で少しもめた。ところが彼がどこかに電話を1本いれた途端、すぐにOKとなった。
小泉キャスターとバスラ近郊から生中継ができたのもその時だった。
4月13日。
いよいよバグダッドへ出発することが決まった。
メンバーは、私を含め6人。
ベルリン支局長の米長記者、クアラルンプール支局長の坂本記者とマレーシア人のハミッドカメラマン。ニューヨーク支局の田中ディレクター。先ほども述べたクウェート人のコーディネーター。
アメリカ軍の車列コンボイに守られながら、われわれの2台の車は陸路をひたすらバグダッドへ向かって進んだ。道は、破壊されることもなくきれいに舗装された3車線道路。
砂漠ばかりかと思えば、そこには家があり、人々はわれわれに手を振ってくる。
ラクダと暮らす遊牧民の集落があったりと、のどかな風景も見られた。
距離にしておよそ700km。早朝に出発し、およそ12時間後の夕方(まさに暗くなる一歩手前といったところ)、何事もなくバグダッドに到着した。
もし、もう1時間遅ければ危なかったかもしれない。暗くなったとたんに襲撃されたという話を何度も聞いていたからだ。
バグダッドを訪れるのは2回目。およそ10年ぶりだったが、予想以上だった。
黒焦げの戦車。被弾した軍用トラック。もくもくと揚がる黒煙。旋回するヘリ。
ここはまさに戦場以外の何ものでもなかった。
興奮とある種の高揚感に包まれてバグダッド入りしたものの、停電で真っ暗やみの街に時折銃声が鳴り響くのは正直言って怖かった。
ババババ!バリバリバリバリ!ズドーン!
「斎藤さん、すごい音ですね」深夜。相部屋だったディレクターの田中君がささやいた。
「ああ、寝られねえな。こりゃ」
毎晩のように、われわれのホテルのすぐ近くで銃撃戦があった。
ここは安全と言いつつも、やはりあの音には結構ビビらされた。
東京のネオン(?)など思い出し、怖さを紛らわせながら寝床に入った。
当時はヨルダンからバグダッド入りするのが主流で、クウェートからバグダッド入りするというのはまれなケースだった。
だからといっていいのか、われわれがクウェートで所持していた米軍のプレスパスが意外な効力を発揮することになった。これを持っていたために、大統領宮殿など、さまざまな場所にほぼスルーパスで入ることが出来た。
共和国大統領宮殿。ここでは激戦地だったことを物語るかのように、薬きょうや迫撃砲の残骸、イラク軍兵士のヘルメットなどが散乱していた。
それらをよけながら撮影し、宮殿内を歩く。
サダム・フセインの銅像のほとんどが、ものの見事に顔の部分だけが破壊されていた。
広い敷地。ぜいたくを極め、一般市民を無視した生活をしていたのがうかがわれる。
そして、息子ウダイ氏の宮殿の中へ潜入取材することができた。主無き宮殿は無残にも爆撃でめちゃめちゃに壊されていた。しかし自由奔放、やりたい放題の生活のあとがそのままの状態で残っていた。シャンパンにウイスキー。スポーツカーの雑誌に、金髪女性の写真の切れ端...。
「こんな生活を送っていたのかー」、「ただのドラ息子の部屋じゃないか!」
腹立たしさとともに少しこっけいだった。
この模様は頻繁にオンエアされていたと思う。そのありさまが映像でうまく表現できていればと思う。
バグダッドにはおよそ2週間滞在した。
依然、略奪行為などは見られたが、徐々に市場やレストランもオープンし始めていた。
ひどい生活状況の中で、人々はたくましく生きていた。市場にも活気があった。
「力強いな」、そんな風に感じた。
無邪気に笑いながら駆け寄ってくるイラクの子供たち。その姿は今でも目に焼きついている。しつこくものをせがんできてうるさいのだが、こちらがカメラを向けると、すましたり、はにかんだり...本当にかわいい。
別に偽善者ぶるわけでも、かっこつけるわけでもないが、ひとつ言えることは、彼らには何の罪もない。間違いなくこの戦争の犠牲者たちである。
の国は今後どうなっていくんだろう?
彼らの姿を思い出すたびに思う。
早く、真の意味での平和と安定が訪れることを。
およそ2カ月間におよぶ長い出張が終わった。
4月28日。ドバイ経由で東京に戻った。
テレビをつけてニュースを見る。画面の中にはフセインの姿もなければブッシュもいなかった。
白い服を着た、訳のわからない集団がトップニュースを飾っていた。
取材撮影部 斉藤 修
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