最終更新: 2008/12/05 20:15

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帰ってきた矢部ちゃんのカメラマン日誌

カメラマンのつぶやき

今回は、少し遅くなってしまいましたが、イラク戦争報告第2弾です。
前回はクウェートからイラク入りした斎藤カメラマンの日記でしたが、今回は、イラクの西側、ヨルダンからイラク入りした小林 敦カメラマンの日記です。待機が長く、いらいらが続いたようですが、それもカメラマンの仕事のうち。さて、どんな日々を過ごしていたのでしょうか。

2003年7月8日 イラク戦争報告第2弾 〜小林 敦カメラマン編〜

部長から「敦、イラク戦争の取材頼む」と言われたのは昨年の暮れ。そのころはまだ、取材予定が具体的に決まっていたわけではなく、期待半分・不安半分で自分1人でいろいろなことを想像するばかりでした。
年が明けて、社内ではようやく態勢が出来始めました。私は、須田キャスター、後藤ディレクター、そしてビデオエンジニアの赤田君と一緒にヨルダンの首都アンマンに行くことが決定。イラク難民の様子やアラブ諸国の反応などを取材報告する予定とのことでした。 「イラクとはどういう国なのか」、「化学兵器にはどんな種類があり、どんな特徴があるのか」、いろいろな方からお話を聞いたり、自分自身でも資料を集めたり、柄にもなくまじめモードで過ごすうちに、少しずつ緊張ムードが高まってきました。

1月下旬に「フジテレビ・イラク戦争取材班」は、アラブ首長国連邦のドバイで、元イギリス軍特殊部隊の方からBC(生物・化学兵器)対応訓練を受けました。ヨーロッパやアジアの諸国から特派員・カメラマンが集まり、まじめに訓練に取り組んでいました。私にとっては、化学兵器の恐ろしさをあらためて痛感させられる訓練でした。
「イラクが化学兵器を使ったら命の保障はないな」
…緊張感が高まります。

ドバイから帰国してみると、戦争ムードがよりいっそう強くなっていました。私たちもいつでも出発できるよう準備を整えます。
「いったい自分は向こうに行って何を撮影するのだろう」、
「本当にイラクまで行けるのだろうか」、
「バグダッドでの撮影ができるのだろうか」
いろいろなことを想像しながら、会社から「GO」の命令が出るのを待つ日々が続きました。

しかし、実際にはGOサインがなかなか出ません。チケットの予約を入れてはキャンセルというパターンの繰り返しです。いいかげんじれてきたころに、まず斉藤カメラマンのチームが3月6日、カタール・ドーハに向けて出発しました。
そして、そこからさらに5日間たった11日に、ようやくわれわれもヨルダンのアンマンに向け出発したのでした。

われわれがアンマンに到着した時には、ホテル内のオフィスフロアに仮設された「フジテレビ・アンマンオフィス」に、ほぼ完ぺきなバックアップ態勢ができていました。われわれより前にアンマン入りしている報道技術チームが、「生放送でも素材電送でも、なんでも来い!」という態勢をすでに作ってくれていたのです。どんな時間にでも、われわれがテープを持ち込みさえすればすぐに日本まで電送できるという態勢は海外取材としては非常に楽でした。
このホテルは、わが社のほかにも世界各地のジャーナリストたちが宿泊しています。日本のテレビ局ではTBS、テレビ東京が同じホテル。NHK、日テレ、テレ朝はすぐ近くのインターコンチネンタルホテルにオフィスを構えていました。

開戦前の取材は、アンマンから車で片道4時間のところにある難民キャンプ予定地の取材でした。前回の湾岸戦争の時、ヨルダン、イラクの国境付近に多数のイラク難民が押し寄せたそうなので、「受け入れ態勢は今どうなっているか」を取材したのです。赤十字の倉庫には、すでに各国からの物資でいっぱい、難民キャンプ予定地には、すでに水道、電気なども準備完了間近でした。

戦争が始まったら、わが社も、この難民キャンプの場所にENG(Electric News Gathering )(*1)1カメ、記者1人を常駐させる予定です。このため宿探しもしました。国境、難民キャンプ地から一番近い街、アルルウェイシドにはホテルは1軒しかなく、すでに各国のジャーナリストたちでいっぱいでしたが、あと2室だけ空いているというのでとりあえず仮契約。さらに近くの民家も借り、準備OKです。

アンマンに滞在して8日目、米軍がバグダッドに空爆開始、いよいよイラク戦争の始まりです。アンマン班はいつでも特番、カットインに対応できるよう、12時間交代の24時間態勢をとりました。私は須田キャスターとともに、現地時間の朝8時から夜8時の勤務。これで完ぺきかと思ったのですが…。
いざやってみると、難民キャンプ取材に回す人手がどうしても足りません。記者の方は、急きょ、マレーシア支局から坂本記者がアンマンに入りました。しかしカメラマンの手配がつきません。ということで、私とコンビのビデオエンジニア赤田君を抜てきしました。カメラ撮影にはあまり慣れていない赤田君は少々不安そうですが、やってもらうしかありません。

開戦中のわたしの取材といえば、須田キャスターの生リポートのカメラ操作、アンマン市内にあるイラク人街での取材、日々繰り広げられる反戦デモ取材などなどでした。中でもイスラエル人地区の反戦デモは過激でした。デモ隊は警察に向け投石、警察も催涙弾で応戦します。取材していた私たちは、悪いことに警察とデモ隊の中間に挟まれてしまい、催涙弾で涙は出る、せきは出るは、デモ隊の投げた石の破片は当たるは! 思わず近くの民家にかくまってもらいました。ちなみにこの日は私の誕生日でした。
私がそんな目にあっている一方で、赤田君の行った難民キャンプの取材はというと、イラクからの難民はまったくなし。逆に、ヨルダンからイラクに帰るイラク人の数が日に日に多くなるという予想外の展開で、取材チームは早々にアンマンに戻ってきました。赤田君は再び私とのクルー結成、坂本記者はクウェート取材へと移動して行きました。

そんなこんなで過ごすうちに4月9日、バグダッドではフセインの銅像が米軍によって倒され、戦争は事実上決着してしまいました。さて、いよいよわれわれもバグダッド入りか。緊張が高まります。
イラク入りの方法をいろいろ探ったのですが、どうやらアンマンからは、いろいろな国のジャーナリストと一緒に車を何台も連ねていく方法しかありません。あまり安全性に保障はなく、実際に身ぐるみはがされた局や、撃たれて死亡した局など危ない話ばかり。一方、クウェートからなら、米軍と一緒に行けるということで、まずはクウェートに滞在していたチームがイラク・バグダッド入りすることになりました。われわれはアンマンに残り、バグダッド班のサポート。といっても、実際にはできることはほとんどありません。ただただ時間ばかりが過ぎていきます。はあ。

このころは、ちょうど開戦中バグダッドで取材をしていた近藤さんや、米軍の従軍取材をしていた小川記者が、イラクからアンマンへ出国してくる時期でした。彼らの話を聞いていると「イラクに行きたい」と思いがいやがおうにも高まってしまいます。でも実際の仕事は毎日「おるすばん」。…少々イライラ気味でした。 一方で、イラク戦争取材態勢の縮小が始まり、報道技術の人たちは次々と撤収していきます。カイロ支局のエジプト人カメラマンも徴兵制度の手続きでエジプトに帰国。アンマンオフィスはどんどんさみしくなってきました。そして2週間。バグダッド入りしていたクウェート班が取材を終え、アンマンにはカイロ支局の上野記者のチームだけが念のために残ることが決まりました。私たちも、もうすっかり気持ちは日本です。

ところが。
カイロ支局のカメラマンの徴兵制度の手続きが長引いてアンマンに戻って来られないとの連絡が入ってしまいました。われわれはまたしても「おるすばん」決定です。イラクに行けるわけでもないのにアンマンでぼんやりしててもなぁと正直思いました。が、結果的にこの連絡が、私たちをバグダッドに連れて行ってくれることになったのでした。

数日後、ヨルダンの日本大使館の職員の方たちが、近々イラクの日本大使館の施設の状況を確認にに行くとの情報が入りました。本社に連絡したところ、「それは映像欲しいね」とのこと。大使館員と一緒ならバグダッドまでも少しは安全だろうし、ということで急きょバグダット行きが実現することになったのです。 われわれは、さっそく準備を開始しました。坂本記者からバグダッドの情報をいろいろ聞き、食料、水など、そして砂ぼこり対策のエアースプレーを大量に購入しました。あきらめかけていたイラク行きの準備ですから、正直なところ、かなり興奮しました。ただ、バグダッド市内はまだまだ危険という情報もあります。高ぶる気持ちを引き締め、出発準備に取り組みました。

出発は朝4時に車2台でホテルを出発。国境付近で大使館員と待ち合わせて、イラク国境を越えたのは午前10時30分。まず、イラクに入ってビックリしたのは、道路のしっかりしていることでした。片側3車線の日本でいえば高速道路がずーっと延びているのです。整備がしっかりしており、順調にバグダットに向け進行できました。 途中、数カ所空爆された個所がありましたが、午後3時にはバグダット市内に入り、無事に宿泊先のスワンレイクンホテルに到着。現地コーディネーターとドッキングし、物資などを部屋に入れ、さっそくオフィスにしているパレスチナホテルへ向かいました。

パレスチナホテルは皆さんもご存じの通り、世界中のジャーナリストが集結しており、ここにいればいろいろな情報が入ります。素材電送も生中継もここですべてOKです。東京で「どこの社の回線で何時から」と予約を入れさえすれば、あとはわれわれがそこの社にテープを持って行くだけ。PAL(*2)方式の映像だろうとNTSC(*3)方式だろうと何の問題もありません。
「ここ、本当にバグダッドなの?」
しかも各社、電送室も立派で
「ここはホテルの部屋なの?」
と思うほどでした。電送、生中継に関してはなんの苦労もなし。良い時代になったものです。

バグダッド市内は、ある程度落ち着いたとはいえ、所々にいる米軍兵士たちの姿は生々しく、いつなんどき、だれが撃ってくるかという不安感、そして緊張感が常にありました。
取材に出る時には防護服、防護マスク、防弾チョッキ、ヘルメット。それに加えて、もちろんカメラ機材もあるので、装備全体ではかなりの数、そしてかなりの重量になります。気温が高かったので、体力的にはかなりこたえました。
が、もっとこたえたのは精神面でした。街中でカメラを担ぐと、どこからともなく人が集まり出します。ただ集まるだけならいいのですが、私のポケットに手を突っ込んできて、物をとろうとするのです。これにはまいりました。

バグダット滞在1週間、なんとかこの環境にも慣れ始めたころ、ヨルダンのアンマン空港での毎日新聞・五味記者の事件が発生しました。東京ではバグダッドのネタよりアンマンの毎日新聞のネタの方が興味があるようでしたので、われわれはやりかけの企画取材をなんとか終わらせ、バグダッドに別れを告げました。結局、10日間のバグダッド滞在でした。

イラク、ヨルダンの国境では、毎日新聞の事件のおかげで税関のチェックがメチャクチャ厳しくなっており、われわれは機材の1つ1つをチェックされ、われわれクルーだけで軽く1時間はかかりました。周りの各国のジャーナリストもうんざりしている様子でした。 アンマンに戻ってすぐ、毎日新聞社長とヨルダン国王との会談、記者会見と、ドタバタ状態の取材をこなすうちに、徴兵手続きを終えたカイロ支局のカメラマンがやっと戻ってきて私の長かった出張もようやく終了、日本への帰国となりました。


今回、「イラク戦争取材」をして感じたことは、自分の命を自分で守り、どんなに暑くてもどんなに狭くても、常に自分の足元には化学兵器の防護セット、防弾チョッキ、ヘルメットを置いておくこと、状況によっての的確な判断が必要だと思いました。機材的には砂対策、できるだけまめにエアースプレーなどで掃除すること。

各国のジャーナリストたちが私に言いました、「君とは3年後、5年後にまた会えるね」と。
最初は何を言っているのかと思いましたが、彼らはもう、北朝鮮で何か動きがあった時のことを考えているのです。東京や大阪は北朝鮮の標的になりやすいだろうから福岡を拠点にしようかなど、具体的な話も耳にしました。いずれにせよ、今後もいろいろな場面で今回の経験が役に立つことはあるでしょう。ぜひとも生かしていきたいと思います。

小林 敦

取材撮影部 小林 敦

*1) ENG (Electric News Gathering) もともとはVTRによる取材とフィルムによる取材を区別するために使われた用語だが、現在はフィルムによる取材はほとんど(全く?)なくなってしまったため、漠然とVTR取材を行うチームのことなどを表すことが多い。
*2) PAL (Phase Alternating Line) ドイツ、イギリス、イタリアなどヨーロッパや中国などで採用されているカラーテレビの方式。
*3) NTSC (National Television System Committee) アメリカ、日本などで採用されているカラーテレビの方式。

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