
帰ってきた矢部ちゃんのカメラマン日誌
カメラマンのつぶやき

TSUNAMI ! この日本語の言葉が国際語だったとは、今回のスマトラ沖地震で初めて知りました。 今回のカメラマン日誌は、津波の被害の様子を取材に行った、三浦 修カメラマンの報告です

2005年3月8日 スマトラ沖地震取材報告
C-130・機内にて(1)
C-130・機内にて(2)
震災から2週間がたったころ、支局から応援要請があり、1月8日、わたしたちはタイ・プーケットに入りました。まず、タイではウタパオ基地から米空軍機C-130に同乗取材し、インドネシア・バンダアチェ空港へ救援物資を運ぶ米軍ミッションに密着取材をしました。 ウタパオ基地から3時間ほどのフライトでバンダアチェに到着。
(ちなみに日本のTVクルーでは、震災以来バンダアチェ初上陸? だったらしいです...)
しかし、バンダアチェ初上陸とはいえ、米軍のミッション取材がメーンなので、バンダアチェにいたのは空港のみ。しかもほんの30分くらいしか時間がないということで、撮れるものは駆け足での取材。トイレに行くのもダッシュでした。ここまでの取材でわかったことといえば、現地は猛烈に暑いということでした。
再び3時間ほどのフライトでタイ・ウタパオへ。
その後、インドネシア取材ビザ取得&予防接種のためマレーシア・クアラルンプールへ。ビザ取得後、必要な備品を買いそろえ、今度はインドネシアのメダンへ入り、
ここでも水、食料などを買いそろえました。
三浦カメラマン・
予防接種
買いそろえた食料
& 機材・空港にて
買い物中・
インドネシアのスーパー
そして、バンダアチェへ。ここアチェは、この震災で最も被害の大きかったところの1つ。
初めて現場を見た時は言葉が出ませんでした。海から数km離れている町の中に船が打ち上げられ、倒壊した建物、つぶれた車、津波で辺り一面水浸し、いまだに町中に遺体がゴロゴロ...。
まだまだ余震もあり、これから伝染病の心配もあるという不安な中でのアチェ取材。
バンダアチェの街(1)
バンダアチェの街(2)
遺体回収作業中
CH-47チヌーク・輸送機
ここでは、主に日本の自衛隊の取材をしました。陸上自衛隊のCH-47「チヌーク」に同乗し、人口の80%が亡くなったといわれている西海岸の町ラムノでのミッション密着取材などなど...。
とにかく、アチェでの取材は大変でした。
バンダアチェでの住まい
通称: アチェハウス

ところで、アチェでのわれわれクルーの生活は...、地元の民家を1カ月借り切りました。中はとても広くて8つほど部屋があり、そこで地元の記者、ドライバー、フジテレビのスタッフなど15人ほどが生活。飲料水はペットボトルの水、食事は、コーディネーターさんがジャカルタで仕入れてきたカップめん。地元のスタッフたちのためにまかない飯をつくるおばさん2人と洗濯をしてくれるおばさん1人。なかなか快適でした。
しかし、現地の衛生状態はとても悪く、時々出る水を瓶にためて、そこに消毒液を入れて水浴び...トイレを流すのもこの水。(水浴びできるだけ良かったのかも...)
現地の日中は非常に蒸し暑く、ただでさえ自分は太っていて暑がりなのに...この点だけは不便でした。
バンダアチェでの食料は
カップめんやインスタント食品でした
お風呂は、左側の瓶にためた水を
浴びていました
インドネシアの軍人たちと
記念撮影
ちなみに、アチェは紛争地域で普段は外国人は入れない場所。
今回の津波で、たくさんの警察や独立を求めて戦ってきた自由アチェ運動(GAM)の人々も亡くなったと聞きます。
取材中、記者やドライバーも「銃撃戦」を見たということでした。
しかし、私が感じたアチェの人々はこちらが手を振れば、みんな笑顔で手を振り返してくれる。そんなやさしい笑顔がとても印象的でした。
とある村での取材中、日本語が話せるアチェ人と出会いました。
その人が涙ながらに言った
「私のお父さん、お母さん、家族...みんな死んでしまった...」
「神様はなぜ怒る...なぜ私たちをこんな目に遭わせるのかわからない...」
という言葉は今でも忘れません。
もう、このような災害や紛争が起こらないようにと思いました。
しかし、それにしても、ホントにアチェは蒸しアッチェ〜(蒸し暑かった)です。
取材撮影部 三浦 修
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